ヒストリー(沿革、歴史)

株式会社SHIBAのあゆみ

平成21年6月5日
有限会社柴田、柴田裕介の出資により株式会社SHIBA設立
平成21年8月
宮崎県社会適応訓練事業の協力事業所として指定を受け、パン製造(はぁーとパン)カフェの運営(カフェふろーと)を訓練内容としてスタートする。
平成22年2月1日
はぁーとパンスタート
平成22年5月5日
カフェふろーとオープン(15席)
平成23年1月5日
宮崎市より指定障がい福祉サービス事業所の指定を受け、社会適応訓練事業所の作業を引き継ぎ、指定障がい福祉サービス事業所はぁーとパン(就労継続支援事業A型:15名)を開所
指定に伴い、カフェふろーと増床(30席)
平成23年5月5日
はぁーとパン四季通り店オープン
平成24年5月1日
宮崎市より指定障がい福祉サービス事業所の指定を受け、指定障がい福祉サービス事業所SUNはぁーと(就労継続支援事業B型:20名)を開所
平成24年5月1日
はぁーとパン大塚店オープン
平成25年5月1日
宮崎市より指定一般相談支援事業・指定特定相談支援事業・障がい児相談支援事業の指定を受け、ポケットを開所
はぁーとパン・SUNはぁーとが宮崎県基盤整備事業を申請し、パン工房及びパン屋のリフォームを実施
平成26年4月7日
宮崎サンシャインFMの協力にて、SUNはぁーとの作業の一環として、はぁーとマーク(30分番組)の制作・放送開始
平成26年6月30日
はぁーとパン大塚店閉店
平成26年10月20日
前経営者より南蛮屋宮崎店を引き継ぐ(南蛮屋初となる福祉サービス事業所とのVC契約締結)
平成26年11月1日
宮崎市より指定障がい福祉サービス事業所の指定を受け、指定障がい福祉サービス事業所ピアはぁーと(就労継続支援事業A型:15名)を開所 宮崎市小松にあるグッデイ内に、ピアはぁーと(パン屋)をオープン
平成27年4月1日
福岡市より指定一般相談支援事業・指定特定相談支援事業・障がい児相談支援事業の指定を受け、東区若宮にシェアーHUG(福岡支店)を開所
平成27年5月1日
株式会社笠江クリーニングとフランチャイズ契約を結び、SUNはぁーとがホワイト急便鮮度市場元宮店を開設
平成27年5月22日
アイ・ケイ・ケイ株式会社様のご協力のもと、利用者を対象にララシャンス宮崎にて、代表取締役の柴田裕介の結婚式を開催
平成27年9月1日
ホワイトポケットビル西館の開館により、SUNはぁーと、ポケットが移転
平成28年10月22日
「第1回みやざきの宝発掘!創造!コラボグランプリ」にて、あめいろCAFEE様とKarasumiエピを開発し、準グランプリを受賞
平成29年5月1日
ホワイトポケットはうす開館により、シェアーHUG(福岡支店)が東区土井に移転
平成29年5月21日
ピアはぁーとが、宮崎県立美術館喫茶室に、ぴあアートをオープン
平成30年3月31日
ピアはぁーと(パン屋)閉店
平成30年5月21日
宮崎県婦人会館喫茶室に、ピアはぁーとをオープン
令和1年12月30日
宮崎サンシャインFMでの、はぁーとマーク終了
令和3年11月20日
南蛮屋宮崎船塚町店が開店
令和4年1月20日
ピアはぁーと(宮崎県婦人会館喫茶室)閉店
令和4年2月1日
ピアはぁーとが多機能型事業所(就労継続支援A型:14名、自立訓練(生活訓練):6名)となり、事業所名ヴェールピアに変更となり、ヴェールエスポワールビルが開館し、移転する。
令和4年5月17日
宮崎市民プラザ喫茶コーナー ラララはぁーとをオープン
令和5年1月23日
ホームぺージ完成
令和5年8月1日
ヴェールピアの定員(就労継続支援A型:11名、自立訓練(生活訓練):9名)に変更
令和5年12月1日
キラリチャーム(訪問看護)開所
令和6年3月27日
キラリチャーム移転

祖父から繋いだヒストリー

真心こめた、もちもち食感とやさしい風味のはぁーとパン。実は、戦前から宮崎市の中心市街地の発展を見つめ、支えてきた、長い歴史の土台の上に誕生しました。

社長・柴田裕介さんの父方の祖父・小三郎さんの先祖は、戦前・戦後に宮崎県に移り住んだ四国からの開拓団でした。

今の宮崎市松山町で、舞妓さんや芸妓さんを育てる「月本」という置屋を営んでいた柴田家。小三郎さんは、この置屋で働いていたキシさんと結婚します。二人はまだ戦後の瓦礫が残る宮崎の街を立て直そうと、懸命に働きました。その一人息子として、昭和22年に生まれたのが和幸さんです。若草通りにある現在の社屋で、キシさんはカキ氷が名物の喫茶「十字屋」を営み、甘いものを求める近隣の会社員の人たちの憩いの場となりました。その後、敷地をいくつかの店舗に貸し出し、小三郎さん一家は現在の中央通付近に移住。キシさんは街中でタバコ屋を営み始めます。

一方、和幸さんの妻・しづ子さんの先祖は、熊本市の藤崎八幡宮近くで酒屋を営んでいました。しづ子さんの父・義一さんと母・フキさんは、あるとき宮崎へ移住。義一さんは早くに亡くなり、フキさんは得意な繕い物で4人の子どもを育てました。フキさんの出入りの一つが、「月本」。幼いしづ子さんも、母に付いて「月本」を何度か訪れていました。

商工会理事長や市議会議員として人望篤く、街の発展に尽くしていた小三郎さんが体調を崩し、療養の甲斐なくこの世を去ったころ、和幸さんは不動産会社から、所有する若草通の土地にビルを建てないかと持ち掛けられたのです。キシさんにもそろそろ楽をさせたいと考えていた和幸さん。周囲の後押しもありビル建設を決意しました。

完成したのは、ケヤキの木を植えた中庭を、階段やテナントがぐるりと囲むモダンなビル。新しい道を歩み出した和幸さんは、幼いころから「月本」にも訪れていたしづ子さんと縁が結ばれ、結婚。二人の男の子を授かりました。

時が経ち、次男・裕介さんは県外で福祉大学に進学。姑のキシさんをしづ子さんが自宅で介護していた柴田家で、「介護」と身近に接しながら暮らしてきた裕介さんは自然と福祉に関心が向かったようです。一度県内に就職ましたが、ある日、自身で就労移行支援の会社を立ち上げたいと両親に相談。「精神障がいのある人たちが就労に向けて働く会社を、街中に作りたいんだ」。和幸さんとしづ子さんの協力を得て、ホワイトポケットビルで起業し、家族は新しい挑戦に歩み始めることになりました。

裕介さんは、県外でパン屋を営む兄のもとで一からノウハウを学び、スタッフや利用者さんと共有しながら、少しずつパン作り、店づくりを進めました。しづ子さんの末弟で、洋食のシェフ・義治さんが考案した本格的なレシピでランチもスタート。パンやランチのおいしさ、一生懸命な接客が評判を呼び、宮崎県立美術館の喫茶室も委託されるまでに成長。福祉関連の事業所が行政運営の美術館の喫茶室を任されるのは、全国でも珍しいことです。

どれも、支援が必要な利用者さんたちの思いに寄り添いながら生まれてきたもの。「不思議と、利用者さんたちの願いが、新しい縁や運を呼び込んできてくれるんです。みんなで作り上げてきたこのSHIBAで、もっともっとたくさんの人に笑顔を届けたい」。裕介さんや利用者さん、スタッフの思いは未来に向かってこれからも、たくさんの夢を紡いでいきます。

取材、原稿:福冨可南子

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